恫喝に近いほどの圧迫

議論というものはあくまで「ある事象、事実を主題において、観点や持論を話し合うことで、より理解を深め、研鑽につとめる」事だと思うの で、どちらか一方が「絶対的に正しい」という事はありえないし、事象を見る視線が違うと、議論は全くの並行線になるわけです。その顕著な例が憲法ですけど ね。
 絶対解に近い答えが出たとしても、それが受け入れがたいものであればそれは「0」にされ、都合がよいと「1」になる。これはもう議論でもなんでもなくて、単にそれこそ「臭いものにふた」という事でしかありません。
 日本人が論理性に乏しいかどうかにはついては、異論があります。「論理的観点から優れている」というのではなく、おそらく日本人ほど理詰めが強い民族もそうそういませんよ。
  なぜならば、西洋や一部の亜細亜は、最終的には恫喝に近いほどの圧迫でもって相手をねじ伏せます。歴史を紐解いても、ペリーがまずやり玉に上がるでしょ う。それから、ハリス、あるいはオールトも。理詰めというのは議論だけの分野でもなく、製造においても同じことで、蒸気船が日本にやってきて、その5年後 くらいにはすでに蒸気船が瀬戸内海近郊を走っていたのですから、これは理詰めで考えないとできないことです。


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